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【2020年4月にnoteに投稿した記事です】
日課として、晴れていれば近所の川沿いを散歩することにしている。この自粛生活において、近所の川がもたらしてくれるリラックス効果がすごい。ひとたび川沿いに出れば視界を遮るものは何もなく、朝のやわらかな光に全身が包まれる。名前のわからない色とりどりの花をいくつも見つけ、鳥のさえずりや水の音や子供づれの家族の笑い声がどこからともなく耳に入る。前日に雨が降ったなら川の水は白く濁り、鈍い光を放つ。振り返って水の流れを眺める時に、私はこの風景の尊さに何年も気づかなかったことを恥じる。
そして、雲ひとつない快晴の時には遠くに富士山が見える。遠くにかすかに見える富士山、私は一歩一歩近づいていくけれどその大きさは変わらない。ただ、朝に日本で一番高い山を眺め、富士山に向かっていくように歩くことは、この停滞している生活において数少ない前進を私にもたらしてくれていると思う。
少し前は、パッヘルベルのカノンや、バッハのG線上のアリアや無伴奏チェロ組曲など、波だった心の揺れを鎮めてくれるよう音楽ばかり聴いていた。そういうものしか、聴けなかった。普段ならブラームスやラヴェル、チャイコフスキーなど劇的で華々しい音楽を好んで聴いていたけれど、世界が激変したことの反動で音楽に求めるものが変わったのだろう。厳かで単調で世界の上澄みを集めたような曲ばかり聴いて時が過ぎるのをただただ待っていた。
4月中旬を過ぎた今では、この自粛生活がだんだん板についてきた実感があるのだけれど、ある時点まではなーんもしたくないって一日だらだらしたり、この先どうするんだろうと途方もない気持ちになることもあった。ここまで世界も私もバッサリと先の予定が見えなくなってしまった経験は初めてで、なんというかもう漂うだけ、ただじっと家の中でできることをしたり川沿いを散歩したり気持ちがノってきたら走るだけなんだよな。
この春はといえば、東京はここ最近で一番賑やかな春になるはずだった。オリンピックに向けて街が浮き足立って、景気が良くなって、そんなお祭りみたいな日本を横目に私はドイツに旅立っているはずだった…何が起きるかわからないものですね。小豆を煮て作り過ぎた白玉ぜんざいに飽きてしまったり(たくさん冷凍した)、即行で持ってきてくれるウーバーイーツのお兄さんに感謝したり、人気のない自然のなかで心を無にしたりしながら、この不確かな生活は続く。