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映画「PATERSON(パターソン)」の感想   シャイな表現者への応援歌

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映画のあらすじなどネタバレありです

パターソンを観に行ったのは、しとしとと雨が降っている日だった。

その日は人と会う予定だったけど、急遽延期になったので「今日パターソン見にいこう」と思い立って駆け込み気味で電車に飛び乗った。

もう上映している映画館も少なくなっている時期で、その上1日に1回の上映だったからだ。

低気圧のせいかはわからないけれど、行きの電車で座りながらうとうとと眠くなり、このまま電車でまどろんでいるのも幸せかも、もう駆け込みで映画はやめて買い物だけにしようかな、なんて思いながら過ごしていた。

でも新宿に着いたら急に体がシャキっとして、足はどんどん映画館へ向かいたいようだった。

新宿シネマカリテ行くのは初めてだった。

狭めの階段を降りていくとミニシアター系の映画のポスターがずらっと並んでいて、それらを見るだけでワクワクした。そして突如目の前に現れた俳優の等身大パネルに「人!!…ではないか」と翻弄されたりした。

最近はもっぱら家でAmazonプライム・ビデオばかり観ていたけれど、映画館にもちょくちょく来たいな、と思った。

映画はというと、静かな日常を描いている、現実と夢がゆらゆらと交錯するような、好きなタイプの作品だった。

シャイな主人公パターソンの慎ましい日々を、ふかふかの椅子と電車の中から続く眠気に身を委ねながら、まどろみつつ鑑賞した。心地よい時間だった。

ネットでさらっと見た前評判では、なんでもない日常の幸福感や、美しさがよく表現されていて素晴らしい、というようなコメントが多いように感じた。

確かに、淡々と繰り返されていく日々の中には確かな美しさがあったし、妻と互いを褒め合いながら、互いの幸せを心から喜ぶ姿には、なんて幸福な風景、と思った。これ以上の幸福はなかなか見当たらないかもしれない。

お互いの人生に少しずつ影響を与えながら、違う人生を歩みながら、同じベッドで眠り、同じころ目が覚める。自分とは性質の異なる、でも自分に似たもう一人の自分がいて、なんの運命だか同じ家にその二人が同居している不思議な感覚は、なんとなくわかる。

何の変哲もない、どちらかといえば地味な日常は、端から見るとこのように美しく見えるのか、と気付かされた。

しかし私がこの映画で一番印象に残り、ヒリヒリと感じたのは、この映画は「シャイな創作者への応援歌だ」ということだ。

パターソンは、詩を書くことは好きで続けているが、それをどこかに発表したり、妻以外の誰かに見せたりはしない。

あくまで自分が書きたいから書いているだけで、詩人として有名になるために書いているわけではない、という風だ。

でも、これは憶測に過ぎないけれど、私には彼はもっと「詩人」として生きたいんだろうなと思えた。

一介のバス運転手、趣味は詩を書くこと、ではなくて。

彼の前には様々な表現者が現れる。

まずパターソンの妻は根っからのアーティスト気質で、ギターを弾いて歌ったり、インテリアを自分好みに描き変えたり、カップケーキを作ってバザーで売りたいと言ったり、衝動的に何かを作りたい!と思ったら即行動するタイプだ。作ったものが芸術的にどう評価されるのかはわからないが、本能のままに自分の作りたいものを表現して、それを表に出している。カップケーキは売れ行き好調だったようだ。

そのあっけらかんとした姿が、パターソンには魅力的に、羨ましく思えるんだろうと思う。

他にもコインランドリーで出会ったラッパー、詩が好きな少女など、思うままに自分を表現している人に、パターソンは出会う。

誰にどう思われているかあまり気にせず、楽しくアーティストとして生きている人がいることをーーーそれが必ずしも芸術を指すわけではなくーーーこの映画では何度も強調されているように感じた。

実力がどうであるかに関わらず、表に出せる人が目立つし、表現者だと認められる。

パターソンは確かに才能があるかもしれないけれど、それを表に出すことが、なかなかできない。その葛藤がうっすらと透けて見えるようだった。

パターソンには、なかなか勇気がでなくて、シャイな自分が重なった。

表現者としての殻を破ることの難しさに、私もとても共感した。

シャイなパターソンに対して、妻は「あなたには才能がある!」と褒めていて、パターソンにはこのような存在が必要なのだなと思う。

映画の最後には、パターソンが大事に詩を書きためていたノートが、飼い犬に噛みちぎられて修復不能なほどボロボロになってしまう…

時間の有限性が示されているように感じた。そんなにシャイになっている暇はないよ、パターソン、と。

今まで作った詩は修復不能になってしまったけれど、またやり直せる、という希望がもてるラストだった。

これまで確かに歩んで、淡々と日々を繰り返してきた強さというか。一度大きな喪失があっても、そこからまたやり直せるタフさが、これまでの積み重ねでパターソンに備わっていた。何があっても、作り続けること。歩み続けること。

映画のラストまではパターソンは、とても内気な表現者だと認識していたけれど、映画をすっかり見終わるとパターソンの生き様はまるで違うもののように感じられた。

もっと表現して生きていって、と言われているようだった。

様々な解釈ができる、観る側の感性に問いかけてくるような映画でした。

まだ一度しか観ていないけれど、もう一度観たらまた新たな発見がありそう。

たまにふとパターソンの残像が頭をよぎる事がある。

映画のワンシーンが、というより、パターソンの魂のようなものが。

ずっと考えているわけではないけれど、日常のふとしたところに「パターソン」が潜んでいて、あの美容室のトイレの扉を開けた時のように、出し抜けに、これからも私の前に現れるような気がしている。

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