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映画「PATERSON(パターソン)」の感想   シャイな表現者への応援歌

 

映画のあらすじなどネタバレありです

 

3年ぶりに、以前切ってもらっていた美容師さんがいる代官山の美容室に行ったら、トイレの壁に「PATERSON」のポスターが貼ってあった。

ちょうど一昨日観たばかりだったので、ドアを開けた瞬間、飛び込んできた「PATERSON」の文字に思わず目を見開いた。

ヨーロッパの隠れ家のようなそのお店に、パターソンのポスターはよく馴染んでいた。

 

パターソンを観に行ったのは、しとしとと雨が降っている日だった。

その日は人と会う予定だったけど、急遽延期になったので「今日パターソン見にいこう」と思い立って駆け込み気味で電車に飛び乗った。

もう上映している映画館も少なくなっている時期で、その上1日に1回の上映だったからだ。

低気圧のせいかはわからないけれど、行きの電車で座りながらうとうとと眠くなり、このまま電車でまどろんでいるのも幸せかも、もう駆け込みで映画はやめて買い物だけにしようかな、なんて思いながら過ごしていた。

でも新宿に着いたら急に体がシャキっとして、足はどんどん映画館へ向かいたいようだった。

 

新宿シネマカリテ行くのは初めてだった。

狭めの階段を降りていくとミニシアター系の映画のポスターがずらっと並んでいて、それらを見るだけでワクワクした。そして突如目の前に現れた俳優の等身大パネルに「人!!…ではないか」と翻弄されたりした。

最近はもっぱら家でAmazonプライム・ビデオばかり観ていたけれど、映画館にもちょくちょく来たいな、と思った。

 

映画はというと、静かな日常を描いている、現実と夢がゆらゆらと交錯するような、好きなタイプの作品だった。

シャイな主人公パターソンの慎ましい日々を、ふかふかの椅子と電車の中から続く眠気に身を委ねながら、まどろみつつ鑑賞した。心地よい時間だった。

 

ネットでさらっと見た前評判では、なんでもない日常の幸福感や、美しさがよく表現されていて素晴らしい、というようなコメントが多いように感じた。

確かに、淡々と繰り返されていく日々の中には確かな美しさがあったし、妻と互いを褒め合いながら、互いの幸せを心から喜ぶ姿には、なんて幸福な風景、と思った。これ以上の幸福はなかなか見当たらないかもしれない。

お互いの人生に少しずつ影響を与えながら、違う人生を歩みながら、同じベッドで眠り、同じころ目が覚める。自分とは性質の異なる、でも自分に似たもう一人の自分がいて、なんの運命だか同じ家にその二人が同居している不思議な感覚は、なんとなくわかる。

何の変哲もない、どちらかといえば地味な日常は、端から見るとこのように美しく見えるのか、と気付かされた。

 

しかし私がこの映画で一番印象に残り、ヒリヒリと感じたのは、この映画は「シャイな創作者への応援歌だ」ということだ。

 

パターソンは、詩を書くことは好きで続けているが、それをどこかに発表したり、妻以外の誰かに見せたりはしない。

あくまで自分が書きたいから書いているだけで、詩人として有名になるために書いているわけではない、という風だ。

でも、これは憶測に過ぎないけれど、私には彼はもっと「詩人」として生きたいんだろうなと思えた。

一介のバス運転手、趣味は詩を書くこと、ではなくて。

 

彼の前には様々な表現者が現れる。

まずパターソンの妻は根っからのアーティスト気質で、ギターを弾いて歌ったり、インテリアを自分好みに描き変えたり、カップケーキを作ってバザーで売りたいと言ったり、衝動的に何かを作りたい!と思ったら即行動するタイプだ。作ったものが芸術的にどう評価されるのかはわからないが、本能のままに自分の作りたいものを表現して、それを表に出している。カップケーキは売れ行き好調だったようだ。

そのあっけらかんとした姿が、パターソンには魅力的に、羨ましく思えるんだろうと思う。

他にもコインランドリーで出会ったラッパー、詩が好きな少女など、思うままに自分を表現している人に、パターソンは出会う。

誰にどう思われているかあまり気にせず、楽しくアーティストとして生きている人がいることをーーーそれが必ずしも芸術を指すわけではなくーーーこの映画では何度も強調されているように感じた。

実力がどうであるかに関わらず、表に出せる人が目立つし、表現者だと認められる。

パターソンは確かに才能があるかもしれないけれど、それを表に出すことが、なかなかできない。その葛藤がうっすらと透けて見えるようだった。

 

パターソンには、なかなか勇気がでなくて、シャイな自分が重なった。

表現者としての殻を破ることの難しさに、私もとても共感した。

 

シャイなパターソンに対して、妻は「あなたには才能がある!」と褒めていて、パターソンにはこのような存在が必要なのだなと思う。

 

映画の最後には、パターソンが大事に詩を書きためていたノートが、飼い犬に噛みちぎられて修復不能なほどボロボロになってしまう…

時間の有限性が示されているように感じた。そんなにシャイになっている暇はないよ、パターソン、と。

今まで作った詩は修復不能になってしまったけれど、またやり直せる、という希望がもてるラストだった。

これまで確かに歩んで、淡々と日々を繰り返してきた強さというか。一度大きな喪失があっても、そこからまたやり直せるタフさが、これまでの積み重ねでパターソンに備わっていた。何があっても、作り続けること。歩み続けること。

 

映画のラストまではパターソンは、とても内気な表現者だと認識していたけれど、映画をすっかり見終わるとパターソンの生き様はまるで違うもののように感じられた。

もっと表現して生きていって、と言われているようだった。

 

様々な解釈ができる、観る側の感性に問いかけてくるような映画でした。

まだ一度しか観ていないけれど、もう一度観たらまた新たな発見がありそう。

 

たまにふとパターソンの残像が頭をよぎる事がある。

映画のワンシーンが、というより、パターソンの魂のようなものが。

ずっと考えているわけではないけれど、日常のふとしたところに「パターソン」が潜んでいて、あの美容室のトイレの扉を開けた時のように、出し抜けに、これからも私の前に現れるような気がしている。

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